校歌の秘話

2001年度 明治大学附属明治高等学校中学校生徒会誌
「過程」50号より引用転記させて頂きました。

 吾等が明高生の愛唱歌といえば何と言っても、「白雲なびく」ではじまる校歌であろう。
この歌は、われわれに愛校心や誇り、魂の高揚を感じさせる名曲である。

 読者にも覚えがあるのではないか。普段、クールで愛校心なんて持ってないよという素振りを見せていた
隣の友人が、 文化祭や体育祭のあと肩を組み、いささか興奮気味に校歌を歌う姿を。この歌は、そんな彼等さえも感動させる底知れぬパワーを持っているのだ。

 この壮大な愛唱歌は、それにふさわしいドラマチックな歴史を持ち合わせていた。その歴史は、明治という学校の歴史そのものであった。そもそも明治の校歌はなぜつくられたのか。この問題を語るときに、ライバル早稲田の存在を無視することはできない。

 我々の感覚だと学校に校歌があるのは当り前のようにも思えるが、明治の校歌が作られた大正9年、校歌は必ずしも全ての学校にあるものではなかった。
現に東京帝大(現在の東京大学) には校歌がなかった。明治大学も校歌のない学校であった。
これは大学のトップ・木下友三郎学長が東京帝大出身であり、校歌がないのが自然であるという空気が学校側に蔓延していた為といわれる。 しかし、学生は不満であった。彼等に自分の学校に校歌がないことをコンプレックスに感じさせたのは、ライバルの早稲田大学だった。

 明治と早稲田はよきライバルであり、ボートレース、野球などで対戦することも多かった。 早稲田の学生は試合のヤマ場になると必ずといっていいほど、肩を組んで校歌を歌い出す。

 ちなみにこの「都の西北」という校歌は坪内逍遥、島村抱月といった大学の人間が、OBの芸術家である相馬御風、東儀鉄笛に依頼して作ったものである。

 明治の学生はその光景を見るのがなんとも悔しかった。自分の学校に校歌がないというだけで、早稲田の人間に負けたような気がした。そんな現実を変えるため、校歌を作ろうと立ちあがった人物がいた。

武田孟、牛尾哲造、越智七五三(しめきち)の三人である。  武田、牛尾、越智は商学部予科の学生であった。彼等は大学に交渉し、校歌を学生の手で作って良いという承認を得た。大正9年のことだった。 

彼等は予科の教授の紹介で詩人の児玉花外に作詞を依頼した。花外は「社会主義詩集」などの代表作を もつ著名な詩人だった。
 花外は明治の出身ではない。ましてや武田らとの交流などあるはずもない。大学側がOBに校歌を依頼した。

 早稲田の例とは隔世の差がある。彼等が交渉に苦労したことは想像に難くない。 しかしながら花外は快く了承した。これは慈善事業というわけではなく、残りの人生を明大校歌に捧げるといった、気概あふれるものだったという。

 花外は武田らと共通点が多い。酒好きの武田、重い社会的責任を負いながら経済的に恵まれない医者の父を持つ牛尾、小樽を愛した越智・・・。花外はそんな彼等に魅力を感じたのであろう。

 わずか数日後に、花外は詩を完成させた。
その詞は次のようなものである。(1番のみ)

健児の風に打ちなびけ、実力養成の旗じるし
校の桜と散り行く学徒、明治、明治!
学の誇りは我等が明治!

 この景気のいい詞に3学生も花外も大満足した。
牛尾は早速その詩を持って、ある人物のもとへ作曲を依頼しに走った。山田耕作である。
言わずと知れた音楽史上に燦然と輝く作曲家。今度の相手は花外とは比べようもないビックネームである。耕作の機嫌を損なわぬよう牛尾は交渉をはじめた。

 ところが困ったことが起きた。耕作が、「詞を書き直したい」と言い始める。
 耕作によれば、この詞は国語体であり作曲できる代物ではないのだという。牛尾は悩んだ。花外が書いてくれたこの詞を変更するとなれば花外はいい気分はしないであろう。しかし牛尾は覚悟を決め花外にその旨を打ち明けた。

 すると花外は快く「書き直してください」と答えた。花外の人間的魅力を感じさせるエピソードである。 詞はこの後耕作らによって書き直されるから、実際の作詞者は花外ではない。今日明治の校歌の作詞者は花外とされているが、これも正しくないということになる。しかし、このやり取りなどを見ていると、花外の名が残って良かったという気持ちになる。

 さて、耕作は詞を書き直すことになるのだが、これは耕作の専門外の分野であり、製作は容易ではない。にもかかわらず、彼は20日で作詞を完成してしまった。

 そこには毎朝6時に耕作の家の門を叩いたという牛尾の熱意があった。牛尾にしてみれば、花外が詞を書き直すことを許してくれた、その温情に答えたいという気持ちでいっぱいだったのだろう。

 耕作もこの牛尾の熱意には心を動かされるものがあったらしい。校歌の一節に「文化の潮みちびきて」とあるが、牛尾というこの男に耕作が敬意を評して同じ音を持つ「潮」という言葉を校歌に組み入れたという。

 耕作の作った歌詞は次の通りである。(1番のみ)

白雲湧ける駿河台
鳴るよ時代の暁の鐘正義平和を突き出す
文明の潮開拓の維新維業の栄えになう
明治その名ぞ我達の心
MEIJI MEIJI 明治 明治 明治
明治その名ぞ 我等の誇り

 さて、耕作はこの詞を完成させた後さらに一人の詩人を紹介した。
西條八十(やそ)という男だった。

 この八十も文学史上に残るほどの偉大な詩人である。
しかし耕作の紹介だけあって、交渉は上手く進んだ。八十は見事な才能を発揮して詩を書いた。
それが次のものである。

白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が
撞くや時代の暁の鐘
文化の潮みちびきて とげし維新の栄えになふ
「明治」その名ぞわれらが母校
明治 明治
「明治」その名ぞわれらが母校

まさしく現在の明治の校歌である。

これを作ったのは花外ではなく耕作でもなく、西條八十という男であった。 作曲は山田耕作が行った。とはいっても、現在の校歌のメロディーは本来ベルギーオリンピックに出場する選手を激励する為に作られたものだった。牛尾が耕作を説得してこの歌をもらったのだという。

 かくして明治の校歌は作られたのであった。 明治の校歌は、ただの一学生に過ぎない男達によって作られたものだった。彼等の「学生の心を一つにする校歌を作りたい」という思いが困難を乗り越えさせたのだ。

そしてその校歌は、完成から80年を過ぎた今でも我々の心に響いてくる。
この原稿を書くにあたって、軍司貞則さんの「おお、明治 白雲なびく校歌誕生物語」を参考にさせていただきました。