
今年、私たちの殆どは満70歳を迎える。(2002年3月現在)
「戦中戦後を体験した唯一の一年生」の座談会の中で、記憶を辿り、当時の回顧に耽っていると、時の推移の余りの早さに、実に感無量となる。
幽冥境を異にされた恩師の方々…多くの親友…。私たちとて、後数年の命かも知れぬ。
だが生きている限り、会う機会を多くつくり、励まし合い、皆仲良くしよう!
互いに、明治高出身だったことを誇りにしよう! 私たちには、「私学・明治の魂」が骨の髄まで染み透っているのだから……。
ああ…あの頃は良かった。苦しくも楽しい思い出も多かった。そして皆個性的だった。授業をさぼり、クラブ活動に熱中し、仲間作りに夢中になったものだ。
ある一人は部員と共に部室に籠もり、道具作りの徹夜作業をしていた。どうやら一段落し、どこでどう調達したのか、かねて用意のスキヤキを煮始めた。そこへ思いも寄らぬ声がした。
「クンクンクン…良い匂いだねえ」
彼らは青くなった。「きつねだ!」狼狽えたところで対応の仕様もない。何と迂闊、野木先生はその夜の当直だったのだ。先生は戸を開け、彼等を見るとニヒニヒッと笑い、部室内をジロリと見渡した。何を言われるか? 一同箸と皿をを持ったまま直立不動。
だが予想に反し、先生の言葉は意外だった。
「ご苦労様。でも、火だけには気をつけるんだよ。」
それ以外は全くの不問。そしてまたもニヒッと笑い、その場を去られた。
彼らは返事とて出来ず、口の中には噛み残しの肉、塩っぱい涙とが入り混じった。
何と暖かく、何と思いやりある先生だろう。思えば涙が出てくる。
わが明治高は本当に「良い私学」だったのだ。私たちはこの学校に通って、本当に幸せだった。
野球部だって同じことだ。私たち学年の級友が、初めて甲子園の出場を果たしたのだ。
それは、「良い私学」だったから為し遂げられた偉業であったし、全員個性的集団だったからだ…とも言える。
聞けば校舎が、猿楽町から調布へ移転すると聞く。感無量ではあるが、現状を察知すれば、これまた時代の流れ、学校経営上の諸問題、止むを得ない重大事なのかも知れぬ。
だが、寂寥感は募る。愛着も断ちがたい。私たちが真に体験した「私学」の良さは、遥か彼方に潰え去り、我が母校と雖も「全く別の学校」になってしまうかも知れぬ。
願わくば、環境の変化に伴い、学内の改革……つまり、点数一辺倒の「没個性教育」から、個性尊重の「人間教育」を断行して欲しい…。
などと儚い夢を見つつ、気だけは若い七〇翁共の戯言の数々、ここらで筆を収めよう。
2001年11月5日 三河島「三忠」にて
「猿楽会」座談会・出席者
荒井健治(旧・石橋) 卯木敏夫 大竹 宏 熊井 実 清水平治
對島厚二 土屋知之 寺村武二 西岡 実 橋本光司 山本昌康
編集・文責…大竹 宏

