懐かしき恩師・愛称

 振り返って見れば、わが母校にとって、空前絶後の「無試験入学者」は、教師達から「創始以来のバカ」と呼ばれたものの、バカはバカなりに、それぞれ強烈な個性の持ち主でもあった。「戦中戦後を体験した唯一の一年生」は、親の愛情を一身に受け、どのような苛酷な状況にあっても耐え忍び、生き抜いてきた。勉強は出来なくても、点数は悪くても、教室の中の交流やクラブ活動等で、将来己を生かす目標だけは見極め、その中で更なる個性が膨らみ、感性も育ち、結果、学校の為に役立ってきた。そんなエネルギーが蓄積され現在に至っているのも、これまた厳然たる事実なのである。

 一方、教師の方々も、私たちを単に「バカ」呼ばわりにしていた訳では無い。

 一面では、見限られたような生徒の中に、特異な個性や、他に勝る資質を見い出し、将来の道に活かすべく仕向けて下さった節もある。

 こんな例もある。授業をサボり、部室に籠っていたある生徒などは、点数的には劣悪であった。だが、部活動での功績が認められ、卒業時には平均点が与えられ、更に、文化部代表として「表彰状」が授与されたのである。このような、生徒の資質を活かした学校側の対応が、彼を発奮させ、将来への道を切り拓く素因ともなった。
これを思うと、わが明治高は、なんと素晴らしい「血の通った私学」であったのだろう……と、言わざるを得ない。いや、これこそ「真の教育」なのかも知れない。

 さて、個性的なのは私たちだけではない。あの頃の教師の方々も個性的であった。
子どもの頃、怖い者の代表と言えば、父親、巡査、先生…と、相場が決まっていた。
現在では、教師が生徒に対し、ほんの少しでも暴力まがいの事をすれば、忽ち子供が騒ぎ、母親達も非難の声を浴びせる。極端の場合は新聞種になるくらいだ。
だか、私たちの頃は先生は怖いもの。頭にゴツン、体罰は日常茶飯事の事だった。
そこで往時を偲び、私たちが薫陶を受けた「先生方の渾名」について触れてみよう。


渾名・仇名(あだな)

言う迄もなく、親愛または軽蔑の意図で、本名のほか、その人の特徴をとらえて付けた名称である。だが、その殆どは親愛よりも軽蔑的な意味をこめた名称が多い。戦前戦後に在籍された先生方の中には、そうした失礼極まるものや、恐らくご本人が忌避されたような渾名(以降、愛称と記す)もあったに違いない。
従ってこの項は、記述に載せるや否や大いに迷ったのであるが、「事実は事実である」との意見も多数あり、敢えて失礼を顧みず記すものとする。

 愛称には、その人の特徴をとらえたものが実に多い。感に入る事屡々である。我が校の偉大な先輩(命名者)の中には「非凡な感覚」の持ち主が居られたに相違ない。


【鯰】なまず……大橋留治先生。

明大総長・鵜沢聡明先生の後任として二代・校長になられた。
かなり強度(近眼)の眼鏡をかけておられ、丸い鼻の下の白髭が見事であった。
ある年の文化祭、演劇部の一人が自作の芝居で釣りの場面を設け、
「あっ鯰が釣れた!」と演じ、場内割れんばかりの大爆笑となった。


【狐】きつね/FOX……教頭・野木晋一郎先生。(英語)

戦前戦後を通じ、余りにも有名なお方。正に愛称そのもの。命名の巧みさ感に堪えない。底意地悪く?皮肉たっぷりのお説教に、生徒一同辟易したものである。

 授業中、出題に応じられない生徒には必ずこう仰った。
「カバンを纏めて、お帰りよったら、お帰りよ!」
「それじゃぁ帰ります」級友の一人Uは、カバンを纏めてホントに帰ってしまった。それを見送って先生は、「あの子はいい根性をしているよ」、正に狐の顔でニッヒニッヒと笑ったものだ。
そのUが、後年、硬式野球部の監督として、母校の教育者になろうとは、その時、誰が想像し得たであろうか。Uとは、卯木敏夫のことである。

 野木……のぎつね……"あんな嫌な先生は居ない"誰しも思った。だが、この方ほど生徒の動向に気を配り、それぞれの資質を見極め、将来の事まで考えて下さった先生は他にない。実は心暖かな先生だったのだ。
因に先生の葬儀の際には、卯木を中心に私たち「猿楽会」が仕切った。卯木によれば、明大野球部監督・島岡さんは、ご遺体を前に、三日間身じろぎもしなかったと言う。


【ガンちゃん】……近藤文治郎先生。(数学)

呼び名の由来は不明である。いが栗頭に超ド近眼。太い眉毛と無精髭が如何にも恐い。
「宿題やってきた者は手を挙げい!」ジロリと見渡されると、挙げたい手も挙げ難い。
「忘れた奴は出てこい!」目と目が合ったら最後、その級友は忽ち血祭りにされる。
「私の拳骨は五寸釘を打ち抜きますぞ!」教壇の前で頭をゴッツーン!目から火が出る。
先生は、先述の浅草の焼け跡整理の際、隊長の任につかれた。
配給物資のみで生活され、闇物資には手を出さなかった。当然、栄養失調になられ、皮肉にも、洒落にもならぬ「ガン」で死去されたという。清廉潔白の方だったのだ。


【象さん】春日秀能先生。(英語)

大変穏やかな方で、柔和な目と皺一杯の顔。背が高く、これまた象さんの愛称ぴったり。授業では特に発音に気を使われていた。舌を丸めLとRの違い…誠に懐かしい。演劇…特に歌舞伎に精通され、脚本もお書きになられた。


【西洋ルンペン】セイルン……遠山教円先生。(図画)

記すに躊躇する誠に失礼な愛称ではある。図画の先生だけに、服装からもチャップリンに似ておられた。この方、実は天才的な画家で、亡くなられてより、絵の値段が急騰したと言う話を聞いたことがある。葛飾区立石町に「教円碑」があり、画風を慕った仲間の方々が建てられたと聞いている。


【タロちゃん】高坂太郎先生(国語・漢文)

タロちゃんの愛称はお名前によるもの。黒い眼鏡、飄々とした話し方。何とも親しみやすいお人柄であった。テストの時など、不正行為に目を光らせる教師が多い中、この方は新聞を広げ、我関せずの態度をされている。だがご一同、油断めさるな。新聞の一部に穴を開け、生徒の一挙一動を見つめておられたのだ。初代野球部長とは意外や意外。


【狆ころ】チンコロ……小野美幸先生(地理・歴史)

これ失礼極まる渾名であるが、先述の通り事実は事実なのである。小柄な方で、歩く様子と、お顔の大きなホクロが特徴をとらえ先輩方が命名したと思う。でも正直、これまた絶妙な愛称ではある。余り感情を示されない穏やかな先生であられた。


【?】 西田夘八先生(地理・歴史)

「北海道の産物を言え!」と、不意に一人を指さす。泡を食って答えられないと、
「親に申し訳ありません…と言え!」と、声高に怒られる。
「サケ・マス・タラ・イカ・ニシン・カレイ・カニ・コンブ……」と、淀み無く答えると
「よし合格!」と、満足顔をされる。私たちは何度反復させられたことか。50数年経った今でも忘れられない。先生に愛称が無いのが不思議だった。


【?】 原篤輔先生(国語・漢文)

謹厳実直な風貌。諭す言葉も物静か。担任として、私たちの多くは先生の薫陶を受けている。教科書不備なあの時代、先生が用意されてこられた古文を、原文のまま教えられた。例えば、井原西鶴の「日本永代蔵」等。かなり高度な授業であったと言える。愛称は無い。


【キンちゃん】石川一郎先生(漢文)

私たちの学年は、この方の愛称の由来も知らないし、また呼んだ記憶もない。
終戦で復員された方。生徒には大変やさしく、後年一時期、校長となられた方である。実は古川柳の大家であり、平成元年「江戸文学俗信辞典」を編纂・出版されておられる。


【狸】宮崎武平先生(物理)

戦後3年目に入ってこられ、私たちが高校生の時、担任となられた。いつも白衣を付けておられたが、風貌から、その愛称がつけられた。


その他、戦後の先生方の愛称を、、思いつくままに列記してみると--。


【ゲルマン】【最敬礼】【三角ベース】【ライオン】【グリコ】【コステロ】【紙芝居】
【チーター】……と、夫々のお顔とお名前が脳裏に蘇ってくる。この稿の冒頭
「失礼を顧みず…」と記したが、もし、先生方に愛称が無かったら…? 極めて無粋なものとなり、先生方の名前や顔も失念し、わが母校への愛着や接点も途絶えてしまったかも知れない。


そこで、エピソードを一つ。
雨天の日、体育館での授業中。その半ば停電が発生、しばらく館内が暗くなった。原因を突き止めるべく、M先生が配電盤に歩み寄った途端、館内が明るくなった。間髪入れず級友の一人がおどけて叫んだ。
"あっ 電気がチーター!"
愛称チーターのM先生、いや、怒った怒った。
"この野郎〜っ!"
追いかけたものの、生徒の逃げ足の方が早かったのは言う迄も無い。一同、大爆笑。