
巨象と小犬…日米彼我の差を、映像文化の一例で記しておこう。
戦争が勃発する前の年、W・ディズニーは、「ピノキオ」「ファンタジア」。41年「ダンボ」42年「バンビ」を製作している。その5年前の1937年には、既に不朽の名作「白雪姫」を制作しているのだから、正に驚きと言える。
世界のアニメ界に大きな衝撃を与えたこの作品は、戦後、日本でも上映され、漫画家の手塚治虫氏(故人)は、映画館へ十数回も足を運び、強烈なショックを受けたと言う。
我が国でも、戦時中に長編アニメが制作されているが、多くの人は記憶に疎い。
1943年、松竹映画「桃太郎の海鷲」。45年「桃太郎・空の神兵」の両作品がそれである。海軍省制作・監修、当時としては莫大な費用をかけたが、全編カラーのディズニー作品とは、対比のしようもない。
因みに「空の神兵」の原盤が、戦後45〜6年を過ぎて、偶然にも松竹の倉庫から発見された。消失から免れたのである。先年、テレビで放映されたが、当時を回顧してみると、白黒映像とはいえ、レベル的にはかなり高度な作品であったと思う。
1939年、ヨーロッパでは第二次世界大戦が開戦した。
同年、MGM杜は「風と共に去りぬ」を公開。D・O・セルズニック制作による超文芸大作は、莫大な費用と画期的な70oプリントを使用し、世界映画史上に画期的な一頁を記した。この「風と共に…」のフィルムが、戦時中あるルートから日本に渡り、某所で密やかな上映会が行われた。これを鑑賞した日本の映画関係者一同、作品レベルの余りの高さと、戦時中にこれを作った経済力に驚嘆し、「これでは、日本はアメリカに勝てる訳がない」と囁き合い、我が国情を憂いた…との伝説もある。
同作品は、60年余り過ぎた現在でも映画愛好者「ベスト第1位」を常に誇っている。日米彼我の差…言わずもがなである。
1942年3月、東京に初の空襲警報発令。
4月、米軍十六機が東京・名古屋・神戸を初空襲。
6月、ミッドウェイ海戦で空母(日本海軍)四隻を失い戦局の転機となる。
〜(中略)〜
44年〜非常時態極まり、前線銃後の区別なく戦死、空襲、空腹に、年齢、男女の区別を問わず、生死を賭けて戦う事を強制される。
7月、サイパン島玉砕。
8月、テニヤン島・グァム島玉砕。
10月、米機動部隊が沖縄攻撃。
満十七歳以上を兵役に編入。(十七歳未満の志願も許可)
11月、B29が東京空襲。
45年3月、硫黄島にて日本軍玉砕。東京大空襲。
4月、米軍沖縄上陸。
45年(昭和20年)4月、
この様な最中…
私たちは明治中学校の入学許可を得た。
前の頁に記したように、1942年4月18日、東京へ初空襲があった。
大本営の発表によれば、「被害極めて軽微、防空部隊の士気旺盛…」とあっただけで、真実は防諜によって覆い隠されたままだった。
43年、ソロモン諸島など南の島々が次々と陥落し、米軍の超長距離重爆撃機B29の射程距離の中に本土が入るのは、最早時間の問題であった。
そこで、政府から「疎開実施要領」が発表された。九月、空襲に備えて動物園の猛獣たちが順次「毒殺処理」されたことが伝えられていた矢先でもあった。
1944年1月、政府は「強制疎開会」を発し、都内の幼稚園は全園閉鎖。小学校三年生以上を対象に、学校ぐるみの集団疎開が実施された。縁故を求めて、田舎へ帰るだけの疎開だけでは限度があったからだ。その数は、縁故・集団含めて、東京からだけでも百万人の数をこえたという。
同年、東京の人口は650万人。翌年は、疎開と戦災により31%減になった。更に、同年11月24日、B29の東京空襲を皮切りとして、事態は刻々暗澹たる状況となる。
年が変わり、1945年1月27日、2月19日、3月4日、3月10日、大規模な無差別攻撃が続いた。中でも、3月10日の大空襲は23万戸を焼き払い、一夜にして10万人の命を奪い去った。政府は遂に小学校(当時は国民学校)の授業を停止した。
更には「根こそぎ疎開」を国民に訴える。
だが、焦土と化した東京であったが、疎開もせずに居残った人々も居た。加えて、疎開の逆境に耐え切れず、密かに帰京した子供達も数多く居たと聞く。
私たちの学年はそんな一人でもあった。
従って都内には、中学校入学適齢者が少なく、入学応募者に対し、「全員・希望校無試験入学許可」が実施された。この特別措置は、東京都のみであったと記憶するが、その真偽は定かではない。

