
当然、我が明治中学校でも、この措置が適用された。
とは言え、この「無試験入学」は、学校にとっては前代未聞・空前絶後の出来事だった。察するに、「開校以来のバカ共」のご入校と映じたろうし、私たち学年にとっては、「終生忘れがたき屈辱」の始まりともなった。
だがこの戦時中、勉強したくも勉強できない環境に身を置いていたのである。空襲からの避難、食糧不足の飢餓状態、それこそ勉強どころではなかったのだ。まして、明日の生命をも知れぬ毎日であった。だが生き抜いた。それも、私たちの両親が、わが身を犠牲にしてまでも食料を調達し、必死に愛情を注いでくれた結果なのだ。事実、私たちほど「親の愛」を身に染みて感じた世代もまたと無いだろう。
だが、教師達はそんなことは容赦しない。私たちの学力レベルの低さを見極めるや否や、侮蔑のコトバを浴びせかけてきたのである。
「無試験入学」「本当のバカ」それは耳にタコができ、いつしか麻痺し、高卒までの6年間、その屈辱は当たり前の感覚となってしまった。
従って「終生忘れ難い…」筈ではあるが、あれから50数年を経た現在、それも懐かしい笑い話となった。
確かに、一部を除いて、多くの「バカ」が居た事は素直に認める。然しそれだけに、個性だけは豊かだった。なんと言われようと、卒業後、無為に社会生活を過ごしてきた者はいない。それぞれ「バカ」なりの個性と知恵を発揮し、多くの者が社会に貢献してきた。挫折した者は極々僅かである。
勿論、頭の良い奴だっていた。勉強の出来る奴も数多くいた。教室でも、クラブ活動でも、皆仲が良かった。だから、70歳になった現在でも頗る仲が良い。
「集まれ!」と、誰かが号令をかければ、嬉々として、必ず何人かが集まってくる。そして、忽ち少年時代に変身する。この「思い出話」にしても「タイムスリップ」があればこそ纏めることが出来たのだ。
一人が思い出した。「そうだ…校舎には黒の迷彩が施されてあった!」
確かに、爆弾投下回避の手段として校舎全体キリン模様になっていた。猿楽町一帯全て焼失したのに、校舎だけが毅然として聳え立っていたのも、迷彩の効果ゆえだったのかも知れない。
因に、御茶の水近辺、米軍の爆弾投下が為されなかったのは、近くにニコライ堂があったからとも、米軍捕虜の宿舎が近くにあったからとも…の話もある。
「入学金 幾らだったか覚えているか?」
一人が、記憶の良さを誇るように切り出した。「五円五十銭だったんだよ」
一同、これには感心した。正に恐るべき記憶力だ。ところが、もう一人が反論した。「違う!七円五十銭が正しい」
こうなると先に言ったものは後に引けない。
「いや五円!」「絶対に七円!」「違う!」「俺が正しい!」……と、二人の論戦は延々続く。互い七十爺の意地を張り合っているのだ。何れにせよ、二円の違い。この「入学金」実は、都内各校の中では明治中が断然安かったそうな。

